鬼か仏か ― 2006年08月16日 18時19分
先月末に月山に登ってきたということで、月山の麓の村を舞台にした熊谷達也の「迎え火の山」を読みました。
物語の背景として描かれている田舎の生活がとてもリアルです。
現代の地方が抱える問題や、それに向き合って生きる土地の人たちの心情、自然の中で生き、死んでいく日常。血の通った田舎の生活が、都会視点ではなく現地の視点でしっかりリアルに描かれています。
旧盆の十三夜に月山の山頂から麓まで迎え火を連ねる採燈祭。
篝火をたよりに先祖の霊が天上から下りてくる。それに紛れて人々に災厄をもたらす鬼が下界に下りてくるのを防ぐといった、土着の信仰をモチーフとしたオカルトホラー小説ですが、このエピソードはなんか地方の現状に置き換えられ無くないか?
昔から延々と続いている古くさい田舎の生活、慣習とか。これを祖先の霊とするならば、「鬼」は、都会の価値観じゃなかろうか。自然を破壊するとか、共存するとかいったレベルの話ではなく、都市の論理で定義された田舎。たとえば都会視点でテーマパーク化された虚構の、張りぼての田舎とか。
テーマパークってのはその裏側を絶対見せちゃいけないんだそうだ。
たとえば大きなかわいいヌイグルミの中に人間が入っているなんていっちゃあ、絶対ダメなんだそうだ。
田舎の生活をテーマパーク化してしまったら、そこで現実に生活している人はいったいいつどこでヌイグルミを脱げばいいんだ?
地方の活性化とか、村おこしとかいって、都会の視点で田舎を定義してしまうことははたしていいことなのか?
スローライフだなんだいってるけど、結局は都市の視点。そこにあるのは田舎の生活、自然と共にある生活じゃなくて、「自然に囲まれた都会的な生活」にしか見えない。
それがいいのか悪いのかはわからないが、そこに魂を食い尽くす鬼は潜んでいやしないか?
物語の背景として描かれている田舎の生活がとてもリアルです。
現代の地方が抱える問題や、それに向き合って生きる土地の人たちの心情、自然の中で生き、死んでいく日常。血の通った田舎の生活が、都会視点ではなく現地の視点でしっかりリアルに描かれています。
旧盆の十三夜に月山の山頂から麓まで迎え火を連ねる採燈祭。
篝火をたよりに先祖の霊が天上から下りてくる。それに紛れて人々に災厄をもたらす鬼が下界に下りてくるのを防ぐといった、土着の信仰をモチーフとしたオカルトホラー小説ですが、このエピソードはなんか地方の現状に置き換えられ無くないか?
昔から延々と続いている古くさい田舎の生活、慣習とか。これを祖先の霊とするならば、「鬼」は、都会の価値観じゃなかろうか。自然を破壊するとか、共存するとかいったレベルの話ではなく、都市の論理で定義された田舎。たとえば都会視点でテーマパーク化された虚構の、張りぼての田舎とか。
テーマパークってのはその裏側を絶対見せちゃいけないんだそうだ。
たとえば大きなかわいいヌイグルミの中に人間が入っているなんていっちゃあ、絶対ダメなんだそうだ。
田舎の生活をテーマパーク化してしまったら、そこで現実に生活している人はいったいいつどこでヌイグルミを脱げばいいんだ?
地方の活性化とか、村おこしとかいって、都会の視点で田舎を定義してしまうことははたしていいことなのか?
スローライフだなんだいってるけど、結局は都市の視点。そこにあるのは田舎の生活、自然と共にある生活じゃなくて、「自然に囲まれた都会的な生活」にしか見えない。
それがいいのか悪いのかはわからないが、そこに魂を食い尽くす鬼は潜んでいやしないか?
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